2010年03月22日

読まれることを目的とした戯曲「ペール・ギュント」

読まれることを目的とした戯曲「ペール・ギュント」

上演するのが目的ではなく、読まれることを目的に書かれた戯曲のことをレーゼドラマと言うらしい。
昨日静岡芸術劇場で観た演劇「ペール・ギュント」もこの範疇の戯曲とされる。作者イプセンはなぜこの戯曲をわざわざ読むための戯曲としたのか?世界を縦横無尽に駆け巡る男の物語を舞台化するのは困難だという認識なのだろうか。金銭的にとか。
こんにちの舞台を観ている者としてはどんな戯曲も舞台化できないものはないというのが常識と思われるので、わざわざ読むためとする理由がいまひとつ理解できない。豪華絢爛な宮殿だろうと柱ひとつ、布きれ一枚でそれと見立てることが可能だし、一瞬の場転により時空を超えることもできる。
宮城聡芸術監督演出のSPAC版「ペール・ギュント」はまさにこの受け手のイマジネーションを刺激するミニマルな装置を作り上げることによって舞台化されていた。シンプルな舞台は間延びするような場面転換もなく物語を途切れさせずテンポよく進ませる。休憩10分を挟んで2時間30分はけっして長く感じることはなかった。

読まれることを目的とした戯曲「ペール・ギュント」は、はたして9年後(1876年・明治9年)に上演された。成功を収めたとされているがその一因は上演に使われた音楽でもあるらしい。ペール・ギュントと言えば戯曲よりグリーグ作曲の組曲を想起する方が多いのではないだろうか。ロマンチックな雰囲気を持ったこの組曲は今や戯曲から独り立ちして存在している。この事実もこの戯曲の奇妙なところだと思う。(何かをシンボライズしているように見える)
宮城氏はこの状況へのアンサーとして舞台の上にオーケストラピットのような演奏場所を設置するという手法を採用したように感じる。つまりはもう一度音楽を舞台に戻す。戯曲のために奉仕する音楽を創り出す(戯曲に意識を向かわせるため)ことにチャレンジしているように見えた。
宮城演出の舞台はまだ数本程度観たにとどまるが役者自身が音出しする演出が多い。それが今回はさらに大編成になって舞台に上る。役者の方たちは忙しい。*自分のパートがないときは奏者となり、舞台を支える。様々な打楽器のアンサンブルが背景となって舞台に溶け込んでいくように感じるのは*自分の役としての間合いを心得ているからか。ときおりアンビエント的(ミニマルなのはセットだけでない)に響く音がとても心地よかった。
このピットは演奏するためだけの場所でなくさまざまなギミックが埋め込まれた重要な舞台装置でもあったようだ。指揮者が重要な役柄の人だったりとか、ピットから演技に加わるような異化効果をみせたりなど、ピット以上の演劇的効果を発揮させていてた。

戯曲「ペール・ギュント」の主題は今なお興味を引きつける。それはノルウェーの破天荒な人物が自分たちに共通するある問題を抱えているから。それを演出家はどのように置き換えて視覚化したかというと・・。

今日は時間切れ。
この本題についてはぼちぼちと。

思いつきに最後の一言。
草食男子。
これもこの問題に併せて考えると興味深い現象なのかも。


写真は、劇場を出てグランシップから東静岡駅方面を望む。の図

*〜*の部分は下書きからコピーするときに抜け落ちてしまった箇所なので追加しました。3/23 12:03


タグ :SPAC

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
ポチッと応援よろしくおねがいします〜。
同じカテゴリー(演劇・ダンス)の記事画像
コミュニケーションから始まるダンス術
第1木曜日はFM-Hi!に出演。
ダンスで落語?
『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』の著者がやってきます。
『アイスと雨音』特別上映会
義足のダンサー登場
同じカテゴリー(演劇・ダンス)の記事
 コミュニケーションから始まるダンス術 (2018-07-12 17:31)
 第1木曜日はFM-Hi!に出演。 (2018-07-05 20:26)
 ダンスで落語? (2018-07-02 19:39)
 『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』の著者がやってきます。 (2018-07-01 10:47)
 『アイスと雨音』特別上映会 (2018-06-29 17:53)
 義足のダンサー登場 (2018-03-07 15:02)

Posted by 柚木康裕 at 23:34│Comments(0)演劇・ダンス
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
読まれることを目的とした戯曲「ペール・ギュント」
    コメント(0)